孤独だから、孤独を救える私たち。

みんな誰しも、孤独な気持ちを経験したことがあると思う。

自分が持つ何らかの価値観や感情を、誰にも理解してもらえない経験。

シチューはご飯にかける派なのに…、なんていう小さなことから、大切な人を失った気持ちをわかってもらえないというような、大きなことまで。

わかってもらえないことは辛い。自分がおかしいのかと悩み、共感してもらえないことに苦しむ。

この苦しい状態がしばらく続くと、徐々に悟り始めた。

周りの人は、例え家族や親友といったどんなに近しく親しい人でも、結局は全く違う人生を歩んできた他人なのだ。自分の気持ちをほんとうにわかるのは、自分しかいない。その気持ちや、自分の人生を助けることは自分にしかできない。

だからどれだけ心を許せる友達ができてその人たちと過ごす日常が楽しくても、“誰にも理解されない孤独”という小さな棘は、私の心に刺さったまま抜けなかった。

そしてこの痛みは、一生癒えることなくひとりで抱え込んだまま人生を送るのだと思った。これは特段悲観することでもなく、みんなきっとそれぞれ「自分は誰にも理解されない」という孤独を心の奥底に抱えながら生きて、死んでいく。この痛みは個人によって違う別々のもので、どうしても癒せないものだろうと、無意識に諦めていた。

 

その考えを大きく覆して、私の人生に新しい視点をもって寄り添ってくれた。

『映画「さんかく窓の外側は夜」』は、そんな作品だった。

 

 

孤独な3人

はじめ私は、3人の関係がうまくつかめずにいた。

英莉可はどうして、立場上邪魔な三角をすがるように見つめていたのか?

損得で動く冷川が、なぜ三角には無条件に固執するのか?

 

疑問はありつつも、物語が進む中で一貫して伝わってきたのは3人の“孤独”だった。

繰り返し流れる三角が自分の言葉を信じてもらえなかった回想シーン。

歩道橋から“普通の”高校生たちを見つめる英莉可。

そして冷川が教団で崇め奉られていた過去の記憶。

3人とも、他人には到底理解しがたいバックグラウンドと感情を抱えている。

この描写の端々から、3人の『周囲とは違う』という孤独と苦しさが痛いほど伝わってきた。

 映画の前半は、ここから受け取った「孤独を持ち合いながら出会った3人」というイメージがなんとなく頭の中に浮かびながら物語が進んでいった。

 

その3人の関係性から強力な、けれども泣き出してしまうくらいにあたたかなメッセージを感じ取ったのは、貯金箱のシーンだった。

 

寄り添うことに、理由はいらない。

貯金箱のシーンまで、正直私は英莉可がどういう気持ちで人を呪っているのか、完全には読み取れていなかった。人を呪っているとき表情は変わらなくて辛そうに見えなかったし、冴子を呪ったときは笑っていた。けれど、先述した三角とのシーンや歩道橋のシーンから、やっぱり得体のしれない孤独は伝わってきていた。

そんな中で貯金箱を壊しに来た三角に英莉可が打ち明ける。

「ずっと誰かに見つけてほしかったの。…だからあなたたちに会ったとき、嬉しかった」

 涙がこぼれた。ああ、やっぱり辛かったんだ。

孤独に悩んだ英莉可が三角たちと出会って独りで闘わなくてよくなったことに、心の底から安堵した。

 

そして2人は貯金箱を壊しに行く。

 

英莉可が負の感情を一手に引き受け、その間に三角が中へ入っていく。

2人とも、またひとりになる。

英莉可の中に負の力が入り込んでいくこのシーンは、ほんとうに胸が痛かったとかそういう言葉では表せない。英莉可が味わっている苦しみをそのまま感じているかのようだった。今も思い出すと少し苦しくなる。映画鑑賞直後にスマホのメモに打った感想には、”貯金箱に入るところ 痛い痛い重い苦しい痛い”とあった。とてつもない数の刃をたったひとりで受け止める英莉可の無事を全力で願った。

 

一方で貯金箱の中に入った三角も、ついに力尽きそうになる。

しかし、そこに冷川が駆けつける。

自分を助けに来てくれた冷川に、三角がなぜ来たのか理由を問う。

 

「助手がいなくなるからですか」

 すると冷川はほんとうにわからないといった顔をして、

「なんででしょう」

と答える。

 

ああ。

 その瞬間、不思議で強いあたたかさが私の胸の中に広がった。

どうして冷川は三角を気にかけるのだろう。そこには損得で物事を判断する彼なりの理由があるのだと思っていた。

けれど、違った。

 きっと寄り添うことに理由なんて、いらないのだ。

 人は互いに孤独を抱えていて、その孤独な気持ちを分け合ったときから無関係ではなくなるのだと思う。

冷川は三角の孤独を知った。そしてまた三角も、冷川の孤独で凄惨な過去を知る。互いに孤独を持ち合わせながら相手の孤独を理解したとき、人はきっと寄り添わずにはいられないのだ。

だってその孤独は、自分が嫌というほど身に染みて知っているものだから。

だから孤独な人に寄り添うことは、自分を救うことにもなるんじゃないかと思う。私たちは互いの孤独を知りながら寄り添い、孤独から救い救われているのだ。

確かに相手が味わった苦しみのすべてはわからない。当たり前だが冷川は三角の拒絶されて諦める経験をしていないし、三角は英莉可のように人を呪わなければならない状況に陥っていないから、それぞれの境遇でその時に味わった心の痛みは本人にしかわからない。

けれど、相手の気持ちを「わかろう」とすることはできる。

そしてそれが、孤独に苦しむ人が救われるひとつの道なんじゃないかと思う。

貯金箱で事態が収束し、「ありがとう」という三角に、

 

「ありがとう」

 

と英莉可が返す。

私はこの「ありがとう」は、「孤独をわかってくれてありがとう」という意味なんじゃないかと感じた。

孤独をわかろうと、孤独な気持ちを共有してくれる人がいれば、「独りじゃないんだ」と思える。孤独でも、独りじゃないのだと。この孤独は自分だけのものじゃないんだと。

そしてこれは欅坂46のオタクである私個人の視点になってしまうのだけれど、これは私が欅坂46から、平手友梨奈ちゃんから受け取ってきたメッセージそのものだった。友梨奈ちゃんは、孤独を抱えながら孤独を共有してくれていた。寄り添ってくれていた。ほんとうにほんとうに個人的で勝手な見方だけど、この作品はそのメッセージの延長線上にあるようにも感じることができた。

生きづらさを抱えながらそれを表現してくれている友梨奈ちゃんをみてみんなきっと救われただろう。自分だけじゃないんだって。誰にも理解されないものを抱えているのは自分だけじゃないんだって。

それでいいしそういうものだし、「理解されない寂しさ」をわかってくれる人がいてくれればそれでいいのだと。

 

孤独だから、孤独を救える私たち。

人はみんなきっと、孤独からは逃れられないのだと思う。みんなひとつは誰にも理解されない部分を抱えている。お互いその内容のすべてには、共感できないかもしれない。

けれど、「孤独だ」という気持ちは理解できる。

 持つことから逃れられない、私たちに”備えられた孤独”をもって相手の孤独に寄り添うとき、相手を”疑う必要も、信じる必要もない”のだと思う。

孤独なもの同士、孤独をもちながら無条件に相手の手をとろうとすること。これに勝る救いはないんじゃないだろうか。

 

私たちは、孤独であることを互いに知っている。そして、各々の孤独をもってただ寄り添えば、優しさとあたたかさで満ち溢れることを知っている。

それで十分なのだ、と思う。

 

 

最後に

本編の後半、三角と英莉可が貯金箱の前で出会うシーンから、ずっと涙が止まらなかった。帰りの電車でも、最寄り駅につくまでの一時間、こみあげてきた気持ちをスマホのメモに打ち込んでは泣いた。

人って結局孤独なんだと、自分だけでなんとかするしかないんだと思っていた。決して悲観していたわけではなく、そういうものなのだと割り切った。

けれど、この作品の”理由のない”あたたかさに心の中を通り抜けられて、その固く冷たかった価値観がゆっくりと溶かされていったように感じた。

フィクションでは、「登場人物がどうしてそのような行動をとったのか」という理由づけが感情移入をより促進したり物語に説得力を持たせたりすると思うのだけれど、この作品では逆に「理由がないこと」が圧倒的な説得力と、泣きださずにはいられないような大きなあたたかさを生んでいた。

孤独が悲しかったわけでも、孤独に怒っていたわけでもない。

ただただ、心細かった。独りで闘わなければいけないことが、心細かった。

だから、孤独と独りで闘わなくてもいいんだよと、みんなで闘えるんだよと語りかけてくれたこの作品は、私の新しい力になってくれた。

昨年は物理的にも精神的にも孤独な場面が多い1年だった。そんな年を越し、新しい春を迎えるタイミングでこの作品に出会い大きなよりどころを得られたことは、ほんとうに幸せなことだと思う。

『映画「さんかく窓の外側は夜」』が誕生するきっかけとなった原作の生みの親であるヤマシタトモコ先生、撮影の総指揮をとってくださった森ガキ侑大監督、役を表現しきってくださった岡田将生さん、志尊淳さんをはじめとする俳優陣のみなさん、中でも私がこの作品を観るきっかけになってくれた平手友梨奈ちゃん、そしてこの作品に関わってくださったすべての関係者の方々に、心からの感謝と敬意を伝えたい。

ほんとうにほんとうに、ありがとうございました。